大阪の幸朋カウンセリングルーム・記事集

記事集:分かりやすい親・分かりにくい親

直接的には職場や学校での人間関係が原因でうつになった人でも、多くの場合、家族関係に深刻な問題が隠されている。

つまり、家族から否定され続けた経験によって、もともと根深く劣等感が植えつけられており、それが社会での人間関係の問題によって刺激され、悪循環が起こって、自己評価がさらに激しく低下したのである。
だから、うつの人のカウンセリングを行なう場合には、より問題の根本にある家族関係、特に親との関係について掘り下げることは不可欠だ。

うつになった人の親との関係を分析していくと、もちろん例外は少なからずあるが、一方の親が非常に理不尽かつ横暴で、もう一方の親は、「一見」比較的ましに見えるというパターンが多い。
大まかに言うと、都市部ではない旧体質の強い地域ではよりパターン的で、父親の横暴さが際立っているのに対して、母親は世間体を気にして子どもに我慢をさせる、というケースが比較的多くなるように思う。
これが都市部や新興住宅地でだと、状況はもっと非パターン的・ランダムになるようだ。

親子関係の分析においては、誰が見てもひどい親の性格を把握することも当然重要だが、意外と、比較的ましに見えるほうの親の言動のパターンの分析が、さらにもっと重要であることが少なくない。
ご存知の方も多いと思うが、「サブリミナル効果」に関する有名な実験がある。
アメリカでのことだが、ボランティアの観客にある映画を見せ、数分に1度1コマだけ、つまり人間には知覚できない時間で「コカコーラを飲め」というメッセージの字幕を挿入したところ、売店でのコカコーラの売り上げが倍増したという実験だ。

実のところ、近年になって、実験自体捏造された可能性の強いことがわかり、以来この実験は真面目には取り上げられなくなった。
ただ、それがまるで嘘だったとしても、考え方に興味深い示唆が含まれているとは言える。
つまり人間にとっては、予測できない、あるいは認識しがたい出来事の方が、より深い影響力を持ってしまうという点である。

これを、先に挙げた親子関係に当てはめてみると、どういうことになるか……。
日常的に理不尽な暴力を振るう、あるいは働きもしないで文句ばかり言うなど、誰がどう見てもひどい親は、やられる者から見てもやはりひどいために、自我はバリアを張ることができる。
つまり、その親に対しては、比較的早い段階で「人としてだめなやつ」だと見切ることができるのである。
だから、ある程度ひどい仕打ちを受けても、「自分にも問題がある」とはならず、直接自己評価の低下にはつながりにくい。

しかし一方、比較的ましな方の親に対しては、何をされたのか複雑すぎて分かりにくいために、容易にはこのバリアが張れないのである。
例えば、理不尽なことを子どもに押し付け、言うことを聞かなければたちまち罵り、殴ったり蹴ったりする父親がいたとする。
それに対して、母親が「あんたが逆らうから叩かれるんや。逆らうあんたも悪い」と言うとする。
この場合、父親に対する子どもの怒りや恐怖はある程度単純なのに対して、母親の言葉は子どもをひどく混乱させることになる。
そもそも理不尽なことを言われるから拒絶し、暴力を受けたのに、いつの間にか被害者であるはずの自分が悪者になっているのである。
家族コンプレックスとは、こうした混乱の複合によって形成されている。

こうした母親は、彼女自体暴力を振るわないし、時には優しいことも言ったりする。
それだけにこの母親は、子どもにとって頼みの綱とも言うべき存在なのだが、その母親が、一見筋が通っているように見えなくもない理屈で、子どものほうを否定してきたのである。
子どもは訳が分からず、納得のいかないまま自分を否定し、こうしたことが常態化すると、やがて自らの存在そのものを消し去りたいとまで思うようになってしまう。

この母親がこのような行動を取ってしまったのは、無茶苦茶な人物である父親の方をあからさまに否定することは、かえって事態を紛糾させてしまうからであろう。
場合によっては、その矛先が自分に向かう可能性だってある。
また、そもそも日本人には「親孝行」という倫理観が根強いため、親子のいざこざであれば、子どもに我慢させるほうが何となく収まりがいい感じもする。
つまりこの母親にとっては、聞き分けのよい子どもに我慢させる方が、万事都合がよかったのである。

もちろん、混乱させるパターンはさまざまだし、それぞれの役割を誰が演じているかも、必ずしも両親がらみとは限らず、さまざまだ。
またもちろん、どちらかの親が、常に論理的に矛盾のない視点を持っている場合もある。

ところで、何をやるにも「面倒くさいなあ」と思っている人が、「あんたは面倒くさがりやなあ」と周囲から指摘されても、さほど厄介な劣等感を持つに至ることはない。
なぜなら、その指摘は客観的に見ても主観的に見ても正しいからだ。

しかし、例えば一生懸命周りのことを考えつつ、常に最善を尽くそうと心がけている人が、「あんたは自分のことしか考えてない」と言われる時、根深い混乱・つかみどころのない劣等感が生じる。
うつになる人の多くは、生来内省的で聞き分けがよく、責任感が強い。
それだけに、非を引き受けてしまいやすいのである。

「くよくよ考えてしまう」と感じているのも、それは本来の内省の強さと、ものごとを関連付ける能力の高さから来ているものだ。
だが、内省性も聞き分けのよさも責任感の強さも、これを捨てようと考えてはならない。
そうした根本的な性格を変えようとすると、例外なく混乱と自己評価の低下が起きてしまう。
誰がどう言おうが、それはやはり得がたい生来の長所であり、また捨てようと考えても断じて捨てられないものなのである。

大切なことは、自分が劣等感を負うことになった元の人物の矛盾を、傲慢・不遜・冷徹になることを恐れずに、正確に見抜いていくことである。
突き詰めていくと、傲慢・不遜・冷徹になってしまう恐怖を乗り越えることが、もっとも大きな難所であるようだ。

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