大阪の幸朋カウンセリングルーム・記事集

記事集:博愛主義者にカウンセラーは務まらない?

カウンセラーという仕事をしていると、困っている人は誰でも分け隔てなく受け入れるイメージというか、どこか博愛主義的なイメージを持たれやすい。
だから、例えば「お年寄りや子どもは、(当然)お好きなんでしょうね」といった質問をされることが少なくないのである。

しかし私の場合、正直言うと、子供だから、お年寄りだから好きだ、あるいは嫌いだといった感覚はまったくない。
もちろん、「近頃の若者というのはどうも……」と、中年世代にお決まりの感情を抱いたことも、一度としてない。
つまり、好きな子どももいれば苦手な子どももいるし、お年寄りに対しても若者に対しても、その点ではまったく同じだからである。

私としては、至極当然の感覚だと思っている。
それどころか、そもそも分け隔てなく人を愛することのできる人、つまり博愛主義者・献身主義者には、カウンセラーは勤まらないのではないか、とさえ思うのである。
なぜそう思うようになったのか、少し説明することにしよう。

人間はうつや不登校になれば、誰でもカウンセリングを受けに来るのかといえば、決してそういうわけではない。
少なくとも私が会っているクライアントの多くは、自分で考え抜き、できる限りのことをやりつくし、自らは他者に迷惑をかけまいとし、それでいてさまざまな人間関係の中で不当な役割を引き受けさせられ、あげくに自信を喪失せざるをえなかった(あるいは一度も持てなかった)人々である。
私は、こういった人々にいとおしさを覚えると同時に、年齢や地位に関係なく、深い尊敬の念をも抱く。
だからこそ、長年カウンセラーという職業を続けてこられただけでなく、もはややめることなど考えられもしないのだと言える。

彼らとの時間は、私にとって珠玉の時間であると言っても過言ではない。
もちろん私は社会人でもあるので、こういった方々が、現代社会においていかに希少なタイプの人々であるかは、よく理解しているつもりである。
はじめは、自分の元には、「たまたま」こういったすごい人たちがやってくるのかと、不思議に思っていた。
しかし、世間には少ないはずの、こういったタイプの方があまりにも多くやって来られるので、ここ7~8年、ようやく「たまたま」ではないのだと思わずにおれなくなった。
そして、次のようなことに気づいたのである。

たまたま職業を聞かれて「カウンセラーです」と答えたとき、まず一般的な人々の10人中7~8人が、表面的には関心を示すような言葉を話しながら、身体反応のほうは違っている。
やや硬い表情となり、少し身体を後ろに反らすしぐさをするのである。
もちろん私の力量は、「黙って座っただけですべて見抜く」といった達人の境地には程遠いのだが、やはりカウンセラーというだけで怖がられるものなんだなと感じていた。

そこで考えてみれば、クライアントの方々とは、そんなカウンセラーの前に、何一つ隠さないという前提の下に、怖がらずに座ることができた人たちだということに気づいたのである。
あくまでも「大部分は」という意味でだが、彼らは表面的には自信を喪失しているが、どこかで深い自信に裏付けられているからこそ、カウンセラーの前に座ることができるのだと、今では感じている。

その自信とはつまり、いわば「おてんとう様に顔向けができる」自信である。
もちろん、たいていのクライアントの方は、自分でもその自信に気づいていない。 つまり、カウンセラーの前に座ることなど、取り立ててすごいことだとは思っていないのである。 (もちろん、カウンセリングを受けようとしない人が不正直という意味ではないが。)

彼らの多くは、意識していないことが多いが、本質的に自分の気持ちに嘘がつけず、筋の通らないことはどうやればいいのかすら分からない。
クライアントの多くがそのような方たちだからこそ、カウンセラーとしては肯定し支えることに意味が見出せるし、力強くもなれる。

しかし、カウンセリングだからといって、クライアントならば誰彼なしにその考えや生きざまを肯定し、受容できる、というわけにはいかない。
実に論理的な思考と澄んだ目を持っているのに、少数派であるがために、自分のことを「ダメ人間」と言う人が少なくない。
そんな考えは肯定できるはずがない。
また、「あなたはそう感じられるのですね」と、肯定の立場も否定の立場も取らないでいて、その実最も絶望的な突き放しをやれるはずもない。

また一方、クライアントとしては少数ではあるが、中には無謀な理屈を述べて、カウンセラーにその容認を求めてくる人がいるのも事実なのだ。
自らが立てる論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。決して、何もかもを無条件に受け入れるべき立場でもないし、人種でもないのだ。

「博愛主義者にはカウンセラーは勤まらないのではないか」と私が思うのは、そういう理由である。
もちろん、人間の本性に対する肯定的な感覚が背景になければ、そもそもカウンセラーはできないので、広義ではきちんと否定することも博愛的と言えなくもないが、……。

ところで、日本の大学・大学院で教えられるカウンセリング技法の代表といえば、まず第一に、アメリカ人ロジャーズによって創始された「来談者中心療法」という技法である。
この、まるで大前提であるかのように、カウンセラーの卵たちに教え込まれる「来談者中心療法」は、私にとってはあまりに博愛主義的であるばかりでなく、論理的に決定的な矛盾が含まれると考えている。
その批判の具体的内容については、ブログのほうで『ロジャーズ理論の問題点』という記事を書いているので、ご参照いただきたい。

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