大阪の幸朋カウンセリングルーム・記事集

記事集:子は親に似る?

ある人間集団の構造や病理を分析しようとする時、非常に有効なひとつの方法がある。
それは、その集団が始まった時のこと、つまり、どのような人たちが、どのような目的でその集団を始めたかを見るという方法である。

以前の記事で、ユング派では物語をどのように分析していくかについて少し紹介した。現実の状況同様、物語分析の場合も最初の状況を詳細に検討しておくことは何をおいても重要だ。
ユング派の分析家マリー=ルイーズ・フォン・フランツは、とくに、物語の最初の状況において何が欠落しているかを見れば、今から何が成長し、完成されていくかが類推できる、と言う。

たとえば、スタジオジブリ作品、とくに宮崎駿の作品においては、興味深いことに、ほとんどの作品において、母親がいない、あるいは母親の体調や性格に何らかの問題がある。
『ナウシカ』や『ラピュタ』では母親が登場しないし、『トトロ』では母親は病院に入院している。
また、『千と千尋』では、母親は母性や感情の動かない冷淡なタイプだし、『ハウル』のソフィーの母親は、ひとり目立たぬ立場で、家業も家事も切り盛りする内向的な娘を歯牙にもかけず、いまだに玉の輿に乗ることを夢見ているような、派手なわりに中身の空虚なタイプである。

これらの作品では、たおやかさと強さと誠実さをあわせ持つ、大人の女性的性質、あるいは豊かな愛情をもつ母性の成長が、物語の最初から、暗に志向されていることを意味する。
しかもその成長は、当の母親自身によってではなく、次代の娘(たち)によってなされるのである。
もちろんこの公式は、情緒的な文脈のこわれてしまっている駄作には当てはまらないことだが。

興味深いことに、こういった公式は、現実の世界においても当てはまる。
うつになった人々は、ほとんどの場合、家庭の愛情、すなわち母性・父性・兄弟愛などが欠落しているという状況の中で育ってきている。
よく言われることに、「人は、誰かにされたことしか人にしない」あるいは「子は親の通った道を歩く」といった言葉があるが、カウンセラーとしての経験に照らす限り、これらは必ずしも当てはまらないと言ってよい。
親ができなかったことを、子どもが果たしていくという流れは、むしろ非常に自然な流れなのだ。そのとき、むしろ親たちは、しばしば子に立ちはだかる壁としての役割を果たすことのほうが多い。

何度も述べてきたように、うつの人たちは、性質的に一本筋が通っている。
カウンセラーとして、うつの人たちの家族関係を見ていると、第三者だからこそ分かる構図がある。
高圧的な態度や、筋の通らない論理のすり替えによって、うつの人を抑圧したり混乱させ、劣等感を植えつける家族たちは、うつの人の真っ直ぐさを恐れているようなところがあるのである。
うつの人の誠実さや歪みのなさを認めるということは、逆に、自分たちの逃げや歪みをも認めてしまうことになるからではないかと思う。

反対に、うつの人たちが、自分の性質が優れていることに気づき、多少なりともそれを喜びにすら感じはじめると、興味深いことに、周囲の論理・体制がガタつきはじめる。
具体的には、うつの人以外の家族同士で諍いが起きたり、仕事がうまくいかず、かつての権力者が権威をなくしたりと、形はさまざまだ。
しかし、うつの人にとっては、むしろこの時が正念場だと言ってよい。
なぜなら、ガタつきはじめた体制ほど、手負いの獣のごとく、より死に物狂いでうつの人に対する抑圧を強めてこようとするからである。

このとき、「すでに相手は、ガタつきはじめている」と見切ることは、言うまでもなく重要だ。
しかし、その時ですら、うつの人にできることと言えば、多くの場合、ただ真っ直ぐに立っていることだけである。

「ただ真っ直ぐに立つ」とは、自信をもって、背筋を伸ばして立つということではない。
それは、最後の最後に結果としてできることであって、心がけてできることではない。
「ただ真っ直ぐに立つ」とは、うつの人が、すでにずっとやってきたこと、たとえば、可能な限り「罪のない人に」迷惑をかけない、陥れないというほどのことである。
そして、もう一歩踏み込むならば、自分に対する不当なあつかいに、もう従わないということである。

布団に顔をうずめて、ひとり、大声で泣き叫んだ経験のある人は、うつの人に多い。
布団に顔をうずめてそれをやるのは、周りに叫び声が聞こえないように、ということである。
できるだけ周りを巻き込みたくない、という気持ちの表れなのだ。
見た目はくたくた・ボロボロでも、それはやはり真っ直ぐに立っている、ということなのである。

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