用語集・大阪の幸朋カウンセリングルーム

用語集:アダルトチルドレン

近年、「私は、アダルトチルドレンではないかと思うのですが……」とカウンセリングに訪れる人が、男女ともに後を絶たない。

ごく簡単に用語の説明をしておくと、アダルトチルドレン(AC)とは、もともとはアルコール依存の親を持つ子どもで、性格や思考様式に特定の傾向を持つ大人のことであった。

後にこの概念は広げられ、いわゆる機能不全家族の中で育ったため、成人してもなお内面にトラウマや劣等感を持っている人、あるいはその現象を指すようになる。
では、機能不全家族とは何か。これもごく簡単に言うと、家庭不和や身体的・心理的虐待など、子どもの心身の発達にとってある程度大きなマイナス要因をもつ、家庭・家族である。

ACという概念は、決して症状そのものを表す概念ではなく、さまざまな精神疾患や、人間関係の問題が生じやすい人々の背景にある、家族病理を説明する概念である。
だから、例えば「私はうつなのだろうか、それともACなのだろうか」という疑問は成り立たない。
うつという症状を発症し、かつ生育した家族関係に問題があれば、「ACという家族病理によってうつを発症した可能性がある」ということになるのである。

ACであるかないかは、「いわゆる機能不全家族の中で育ち、かつ成人してからの精神生活に何らかの問題があり、さらにその成育歴と現在の問題との間に一定の因果関係が認められる」かどうかによって決定されると言える。

しかし反面、一種の家族の機能不全、例えば「両親の不和」という環境の中で育ったとしても、子どもにとって一方の親が極めて安定した理解者であったり、祖父母など、他の家族によって充分なフォローがあった場合などには、必ずしも後の精神生活に支障をきたすとは限らないので、これはACとは言えない。
また、機能不全家族の条件はあまりに多岐に渡っているため、むしろ機能が完全な家族を想定するのが難しいほどで、両者の間に線引きをすることも、実際の事例においては困難であることが多い。

したがってACという概念は、初期の研究者がそれぞれ微妙に違った意味で用いていたことも含め、やはりかなりの曖昧さを含むと言わざるを得ない。

さらに、筆者が独自に指摘したい点としては、たとえば日本の場合、昭和の前期頃まで多くの親が子どもに加えていた身体的な折檻などは、程度がはなはだしいものは別として、必ずしも子どもの心に傷を残さない場合が多かったのはなぜかという点である。

親の身体的な折檻を微塵も容認する立場から言うのではないが、おそらくこれは、親戚付合い・幼なじみ・近所づきあいといった、広範なコミュニティがいくつも重なり合っているような生活環境においては、子どもの心身の教育に関わる親の役割が、相対的に小さかったことに起因するのではないかと思われる。
つまり、かつては、子育ては親が単独で行なうものではなく、地域や親戚が一体となって行なうものだったのである。

そのように多様な人間関係を擁する生活環境においては、子どもは質のいい家庭や大人に接する機会にも恵まれていたため、親の理不尽さについて見抜く目を持っていたことだろう。
さらには親のほうも、生活そのものが互いに衆人環視の中でのことなので、子どもに対する理不尽かつ独善的な振る舞いにある程度歯止めがかかっただろうし、他の大人が助言を与えたりモデルになるなどして、親として成長を促された面があった。

子どもが大人である家族から加えられた精神的圧迫・傷つけそのものが問題というよりも、社会的なネットワークが乏しく孤立した家庭においては、子どもが理不尽な圧迫を加えられながら、「悪いのは自分の方だ」と誤った考えに陥れられることにより、劣等感コンプレックスが形成されることこそが問題ではないかと思うのである。

各家庭の機能不全にばかり目を向けてしまうと、外部から行なうことのできる予防策としては、児童虐待防止法などの法整備による禁止強制しかなくなる。
しかし、世の中に禁止強制を増やすという方法は、原理的には無意識的なストレスを増大させるばかりであることを考えると、さらに別の病理を形成してしまうことが懸念される。
ゆえに、その根底にある「家庭の孤立」という社会病理の改善は、急がれなければならない。

ともあれACという概念は、アルコール依存患者の子弟が呈する特有の雰囲気に対して、支援関係者が直観的に名づけた呼び名であることは、同様の人々に対するカウンセリング経験を通じて筆者にも理解できる。
ただ、ACという考え方が、家庭環境に問題のある人々全般を対象とした時点で、それはきわめて曖昧なものとなり、かつ、より根底にある社会病理に対する視点をまったく欠くという点で、かなり不完全な概念となってしまったと言わざるを得ない。

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