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昭和のご近所づきあい 2−地面の死

さて今回は、なぜ今日、「ご近所」という地域社会が壊れてしまったかについて、思うところを書いてみたい。

ただ、私は「今日の日本では、ご近所づきあいの世界は壊れてしまった」ということを、当然の前提として話しているのだが、一部には「いやいや、うちではご近所づきあいが昔ながらに続いてるよ」と言う人もいるかもしれない。
もちろん地方に行けば、ある程度昭和の中期くらいまでに近い形でご近所づきあいが残っているところがあるのも、承知の上で書いていることを一言断っておきたい。

しかし、やはり当時そのままに残っているところというのは、都市部周辺のみならず、かなり地方にいたるまで皆無に違いないと思っている。
もちろん、私はあらゆる地方を訪ねてそれを調査したわけではないが、‘原理的に’それはありえないと考えているからである。
ここでは、その‘原理’について述べたいのである。
キーワードは、本記事のサブタイトル「地面の死」である。

ただ、この話を書くのはなかなかに難しい。
というのは、この話にすんなり共感してくれる人は本当に少なく(というよりも、これまでにはっきりと共感したのは家内だけだった)、まず例外なくぽかんとした顔をされたからだ。
私にとってみれば、疑いの余地がないとすら感じることなのに、かなり荒唐無稽な話に思えるらしい。

結論から言うならば、都市部のご近所づきあいをズタズタに分断してしまった最大の要因は、住宅地道路のアスファルト舗装であると私は考えているのだ。

私が小学校3年だったか4年だった頃、家の前の道路がアスファルトで舗装された。
それまでは、大阪の浪速区でもある程度大きな幹線道路しか舗装されていなかったので、はじめはアスファルト舗装など他人事だと思っていたのだが、やがてそこいらの住宅地でも徐々にアスファルトは勢力を拡大しつつあった。
私にとってアスファルト舗装とは、遊び場を奪われること以外の何ものでもなかったから、「こっちへくるな、こっちへくるな」と念じ続けていたのだが、しかしやがてその日がやってきてしまったのだ。

何も遊びが見つからないときは、夕暮れまで飽きずに見ていた蟻の巣が、家の前だけでもいくつかあったのだが、言うまでもなくそれらはすべてアスファルトの下に完全に閉じ込められていた。
また、泥団子を作るのにちょうどいい土がとれる路地の端っこまで、丁寧にアスファルトに覆われていた。

あまりのショックに、たしか祖母にだったと思うが、「道路にかぶせたあの黒いやつ、いつまでかぶしとくん?」と尋ねたものだ。
婆さんは当然のように、「そんなん、ずっとあのままに決まってるがな」と答えた。
私は、「なぜ子どもにも、前もって相談してくれなかったのだろう……」と思った。

少し離れたところに公園はあったが、私のような内向型の子どものテリトリーはさほど広くはない。
また、比較的外向的な子は公園で野球やサッカーをしたが、私にとってそれらは、基本的に他の子との付き合いの道具でしかなかった。
しかし、私のみならず、すべての子どもらの遊びのバリエーションも、やはり著しく限定されてしまった。

外では子どもは走り回って遊ぶもの、というのはまったくもって大人の思い込みである。
実際には、地面にしゃがんで遊ぶ子どもらはけっこうおり、その姿を「元気がない」と考える大人も少なくないのだが、よく見てみるとその内容の豊かさには驚嘆すべきものがある。

アスファルト舗装の直後、私は「これがどれほどひどいことか、いずれ分かる日が来るはずだ。今日のことは忘れずに覚えておこう」と心に決めた。
信じがたいと思われるかもしれないが、強く心に引っかかることがあった時このように自分に言い聞かせるのは、幼稚園くらいから私が身につけていた感情を殺されないための方法だったのである。
実際、幼稚園ごろの自分の写真を見ると、まったく子どもの表情とはいえない厳しく暗い顔をしている。

道路舗装から1年あまり後、私は人生最初のうつ症状に悩まされることになった。
半月ほどの間、どこにいて何をしていても訳もなくただ悲しくて、涙が止まらなくなってしまったのだ。
これには本当に困った。とくに学校でごまかすのが至難の業だった。

私の懸念は、次第に現実化していった。
まず、習慣で家の前で遊んでいた子どもたちの表情の中にも、明らかに白けた雰囲気やイライラが混じりはじめた。
また、道路舗装までは、確かに他ならぬ「自分のこと」であった近所の神社の祭りが、いつしかまったくの他人事に感じている自分に気づき、愕然とした。
他の子どもたちはほとんど意識していないようだったが、やはりどこかで同じように感じているのは、見ているだけで分かった。

また、キャッチボールをしても、バウンドや転がるのが速すぎて危険だ。
棒一本で地面に絵を描くこともできない。
公園の土に比べ、家の前の道路の土は格段に固いのだが、その固い土にどれだけ深い穴を掘れるかを競うだけでも、充分に遊びとして成立していたのである。

子どもたちが外で遊ぶことは目に見えて少なくなり、町の片隅にある、かつては2〜3日に1度は通っていたお婆さん1人で経営する駄菓子屋が、知らない間にひっそりと廃業していた。
駄菓子屋が廃業していたことよりも、そのことに気づかなかった自分がショックだった。
実際にはどうだったか分からないが、家にひとりで引きこもり、死んだように生活する駄菓子屋のおばあさんの姿が想像されて胸が痛んだ。
その胸の痛みには、1年以上も駄菓子屋に行かなかったことに対する罪悪感も含まれていた。

舗装されていない土の道は、毎日住人たちによって掃き清められ、水が打たれ、手の空いたときには自宅前ばかりでなく近所の雑草もむしっていた。
それはまぎれもなく、自分「たち」のものだったからである。

道路が「国や自治体のもの」という考え方は実はおかしい。
それは本来誰のものでもなく、「個人が所有しない」ということを保証するために、便宜上国や市が所有するという形を取っているに過ぎないはずなのだ。
国の所有物だからと、なんでも勝手にやっていいというものではない。

ともあれ、大人たちの日常の営みの隙間を縫うようにして、土の道の上で子どもたちは集団で遊んでいた。
いや、実際には1つの集団として遊ぶことは珍しく、普段はいくつものかたまりに別れて、それぞれが好みの遊びをしていた。
実はこの形態が、非常に重要なのである。

ところで、昨今の風潮として、自らの感覚を基準にして違和感を感じるタイプの人を遠ざけてしまう傾向が、あらゆるタイプの人において強まっているようだ。
そしてその傾向は、学校において恐ろしい構造を描き出すことになった。
都会の中学・高校のクラスでは、「スクール・カースト」なる風潮が現れているというのである。

「カースト」とは、ご承知のようにヒンドゥー教における身分階級制のことだ。
つまり学校場面で、かなりはっきりとした生徒同士の序列化が起きているのである。

「スクール・カースト」においては、一般的には「1軍」「2軍」「3軍」に分かれており、クラスの全員がこのどれかに属することになる。
「1軍」の特徴は、まず付き合っている異性がいて性体験もあり、物おじせず主張ができる発言力のあるタイプ。つまりコミュニケーション能力が高い。
「2軍」はいわゆる一般庶民で数が最も多く、「3軍」は極端におとなしいか、いわゆる「オタク」と言われるタイプなど、いわゆるコミュニケーション能力が高くないとされるタイプの生徒たち、ということである。
もちろん、3軍や2軍が1軍を押しのけて意見を通すということはあり得ない。
当然、陰湿ないじめも起きやすい状況だ。

恐ろしいと感じられるのは、「コミュニケーション能力の高さ」というたった1つの単純な基準によって、すべての生徒が1列に序列化されていることである。
しかも、この場合のコミュニケーション能力とは、単に性格的な外向性の高さに過ぎず、それは必ずしも「社会性」の高さとすら一致しない傾向のことなのである。
C.G.ユングは、20世紀の初頭にしてすでに「外向型への評価の偏重」に懸念を抱いていたが、それがほぼ最悪の形で実現してしまっているのである。

どれほど理不尽なことであっても、それを大きな声で主張できる性格の者が、すべての評価をかっさらって行くということがどれほど恐ろしいことであるか、それは言うまでもないことだろう。
内向型の「独りになったときの」集中力の高さ、特定の技能・知識量の高さなどは、まったく無視されることになる。

こうした現象について、私はここ数10年の子どもの遊びの形態の変化が大きく影響していると考える。
先に述べたように、土の地面の上では、様々な性格の子どもが同じ空間にいながらうまくぶつかり合わないように遊ぶという方法が、自然に身についていたのだが、それがかなわなくなった結果、「スクール・カースト」という、人を評価する価値観の一極化が生じたのであろうと思うのである。

幼稚園でも学校でも、感性の低い教師はとにかく集団で1つの遊びをさせ、それをもって「社会性」を育んでいると考えがちだが、本当の意味での社会性とは、多様性、つまり「バラバラ」を受け止めることのできる器の大きさだと言っていいのではないかと思う。

その意味で、「1軍」はコミュニケーション能力は高くとも、社会性は必ずしも高いとは言えないのだ。
さらに言えば、本当にコミュニケーション能力と言うべきか、「無神経さ」と言うべきかすら分からない面もある。

昔の子どもの遊び集団の中で、年長のリーダー的子どもは、小さな子どもらを預かっている責任を感じ、利益と不利益が特定の子に偏らぬよう常に気を配っており、自分の兄弟だからといって優遇することさえなかった。
子どもばかりでなく、親たちも彼(彼女)に感謝し、安心して子どもを預け、尊敬に近い感情を持っていた。
明らかに彼ら自身、その中立的かつ正義の立場に誇りを感じていたはずである。
またおそらく、そのかっこよさに対する憧れが、次のリーダーを育てていた、あるいはリーダーを選ぶ眼を与えていたのではないかと思う。

断っておくが、このリーダー的子どもはスクール・カーストにおける1軍とは性質を異にする。
彼らは公平性を実現することで初めてリーダーたりうるのであり、自分自身のこともその公平性の中に組み込んでいるのでなければ、彼らは信用を失い、自動的にその地位を失う。
対して1軍は、ほとんど無条件に利益を独占しうる立場に立っているのである。

古い時代にあっては、子どもら自身すでになかば社会の参入者、いや、それどころか近所づきあいをつなぐ重要な機能を果たす存在であった。
そうした中で育つ子どもたちは、他の親と自分の親を比較する機会も格段に多く、幼い頃から親を絶対視せずに済んだ。
たとえ親が横暴であったとしても、横暴であることを子どもは幼くして見抜くことができたため、心までは支配されにくかったのである。
何より、そうした近所づきあいの構造からもたらされる母親の子育ての負担の軽さは、親子関係の良好さを保つ上でもきわめて有効だった。

今にして思えば、ご近所づきあいという人間関係の最大の接着剤は、「子ども」と「土の地面」であったと思うのである。
現在でも、お母さん方の友達の基本は‘ママとも’だが、昔は交流のあり方がずっと自然発生的で、しかも家族ぐるみであり、情報や感情のやり取りの量も桁外れに多かったように思う。
ご近所づきあいは今でもあるにはあるだろうが、交流の量が10と100とでは、やはりまったく効果が違うのである。
町会や村の役は、昔は当人に名誉を感じさせたものだったが、今や押し付け合いの結果でしかないことが、近所づきあいというものの質的変化を物語っていると言ってよいだろう。

ある一家が引っ越していくときなど、子どもらばかりでなく、おばさん同士までが数人で抱き合って号泣していた。
昨今のご近所関係しか知らない人の中には、これほどの他人同士の関係を、想像すらできない人もいるのではないだろうか。
「遠くの親戚より、近くの他人」という言葉がある(あった?)が、それは事実だったのである。

「故郷」とは、子どもの頃の遊び場であった山や川や野そのものというより、それを共有することによる、人同士のつながりであると私は確信する。
少なくとも私にとって、家の前の地面がアスファルトで覆われたことは、間違いなく「故郷」の喪失、いや消滅を意味していた。

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