うつの人は実は優れている

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うつを乗り越えるために

私自身がこのブログを始めてから、うつの人やカウンセラーのブログを見る機会が増えた。
私はここで、うつになる人特有の、生真面目で論理性の高い性格は、本来短所ではなくむしろ優れた面であり、本当はうつを乗り越える上でも、大切な性質であることを述べ続けているわけだが、実は、今のところそういった考えは、専門家であるカウンセラーや精神科医にもあまり通じないようである。

うつに関するどのブログを見ても、とくに専門家のそれにおいては、たいていの精神医学書や心理本と同様、「まじめすぎる」「傷つきやすい」「まわりに合わせすぎる」といった表現ばかりが目に飛び込んでくる。
世の中に、ここまでうつの人が増えていることを考えるならば、もうそれは、その人たちがおかしいという論理だけでは決定的に何かが足りないという発想になぜならないのか、逆に理解に苦しむ。

うつの人たちが傷つきやすく、まじめすぎて、まわりに合わせすぎているというよりも、世の中全体のほうが「歪み」かつ「鈍感化し」、「人の痛みを感じる能力が欠落してしまった」という側面を考えないと、問題の本質は一向に見えてこないはずなのだ。

多くの専門家がうつを語るとき、「現代社会の病理」ということをよく口にし、一方で、表面的にはうつの人々をいたわるような言い方をしながらも、結局のところ、その病理はうつの人々自身のものとして片づけられている。
そんな場合、いったん肯定するようなことを言われたのに結局否定されるわけだから、かえって絶望感を強める人もいる。

はっきり言って、何の根拠もない上から目線だ。
うつの人々にとって必要なのは、いたわりでも哀れみでもない。 真の理解である。
それも、彼ら自身に対する理解だけではなく、彼らの生真面目さを逆手にとって不当に貶めた、家族をはじめとする周囲の人々、あるいは場の歪みと病理に対する理解も含めてである。

いたわりや哀れみは、弱者や劣等者に対して向けられるべきものである。
つまりそこには、すでに否定的な態度が含まれているのである。
私は彼らのことを、「敏感すぎる」とさえ思ってはいない。 ただ、「まともな感覚の持ち主」と思うだけである。

たとえば、うつの人には「頑張れ」という言葉はかけてはならないとまことしやかに言われるが、私はそのように心がけることはない。
うつの人たちは、決して頑張れない人たちではないことを知っているからだ。
問題は言葉の文脈、つまり、どの方向に頑張れと言っているかである。
たとえば、会社勤めの中でうつになった人の場合、それは、どうしても納得のいかない、あるいはしんどいばかりで意味のない仕事ばかりさせられていたために、仕事に対する拒絶反応が出てきてしまった結果である。
つまりその人は、「生理的に受け入れられない仕事」に対して頑張れなくなったのであって、仕事そのものに対して頑張れなくなったわけではない。

本来うつの人は、むしろ仕事に身惜しみをしない人が多い。
それだけに、きちんと意味のある仕事、いわば「生きた仕事」をする限りにおいては、むしろ一般よりも高い能力と誠意を発揮する人が非常に多いのだ。
本来身惜しみをしない人が、逆に怠け者あつかいされてしまう。 それがどれほど残酷なことであるか……
ともあれ、私がうつの人に「頑張れ」というのは、たとえば「怖いと思うのは仕方のないことですが、でも、頑張って、周りの人たちの歪みを見極めていきましょう」といった文脈でである。

うつに対する理解は、もちろん周囲の人がしなくてはならないことであるが、実はそれ以上に、うつの人自身がしておかなければならない。
おそらく風当たりもきついとは思うが、私は、むしろうつの人生来のありようの中に、人間の本来あるべき姿が隠されていることを、主張し続けるつもりである。

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